2020年4月

【書評】精神科医が読み解く名作の中の病

2020年4月27日11:18 AM

「精神科医が読み解く名作の中の病」
評者:大嶋明彦
著者:岩波明
出版社:新潮社
発行日:2013年2月20日
(現在はAmazon Kindleで電子書籍として購入できます)

 

 カール・ヤスパースは「精神病理学総論」の中で以下の通り述べている。「研究者一人一人にとって、何を了解できるか、如何に了解できるかということは、彼の人間的水準の問題である。了解の創造的な業績は神話において、又神話の理解において、偉大な作家や芸術家によって行われている。シェークスピア、ゲーテ、古代の悲劇作家、或は近代作家例えばドストイェフスキイ、バルザック等を、倦まずに生涯をかけて研究して、はじめて内的直観が得られ、了解的想像が練磨され、種々の形姿が得られて、具体的に現在行う了解が行われ得るようになるのである。」

 そうであれば、63編の文学作品を精神医学的に読み解いた本書の著者の了解能力は、並々ならないはずである。本書では各作品の登場人物に精神医学的診断が下されているが、その鋭さと的確さに、私は舌を巻く思いの連続であった。著者が臨床精神科医としても卓越した診断能力を持っていることも、間違いないと思われる。
まず本書は現代文学入門として読むことができる。本書で取り上げられている作家は多岐に渡り、例えば国内では村上春樹、北杜夫、東野圭吾、藤沢周、中上健次など、また国外ではサリンジャー、コナン・ドイル、カート・ヴォネガット・ジュニア、バルザック、スティーヴン・キングなどの作品が紹介されている。著者はこれらの作家の作品の登場人物とストーリーを実に簡潔で魅力的に描き出しているため、ぜひ原作を読みたい気持ちがそそられてしまう。

 また本書は精神医学症例集として読むこともできる。精神疾患の診断名が付いている作品をランダムに挙げると、例えば次の通りである。「自閉症とは何か リアノー・フライシャー『レインマン』」、「不安神経症 谷崎潤一郎『悪魔』」、「非定型精神病 高村薫『マークスの山』」、「薬物乱用 村上龍『限りなく透明に近いブルー』」、「パニック障害 南木佳士『阿弥陀堂だより』」「若年性アルツハイマー病 萩原浩『明日の記憶』」「躁状態 中島らも『水に似た感情』」。当然ながら、精神医学の専門書より楽しくまた興味深く読める。

 さらに著者は多くの作家自身にも精神科診断を下している。著者によれば、芥川龍之介、太宰治、中村真一郎、夏目漱石、ヘミングウェイはうつ病患者であった。文学作品には統合失調症的な雰囲気を持つものも少なくないが、仮に作家自身が統合失調症に罹患したら、思考障害のため首尾一貫したストーリーを創作することが困難になるかもしれない。ほとんど支離滅裂な文体で知られるアイルランド作家のジェームス・ジョイスを、スイスの精神医学者ユングは統合失調症と診断したが、彼は例外的な作家であろう。

 そのうえ本書には、著者の精神医学者としての文明批評や現状批判もちりばめられている。「二度の世界大戦とベトナム戦争の経験から、戦争が人間の精神を破壊することが明らかになった。最近の湾岸戦争やイラク戦争でも、同様の事態が起きている。戦争神経症においては、情動の不安定さ、刺激に対する過敏さに加え、無感動、疎外感、他人への激怒などが特徴的であり、自殺者も後を絶たない。」「介護保険制度が定着するまで、日本においては専門的な老人の介護施設はごくわずかしかなかった。認知症の老人たちは適切な医療を受けることも、人としての尊厳を尊重されることもなく、精神病院の片隅で亡くなっていったのである。現在では老人保健施設やグループホームなど、認知症のための施設は多様になってきているが、ますます増加している認知症患者に対してどのように対応すべきか、医療や福祉の視点だけではなく、倫理的にも、経済的な側面からも、幅広い議論が必要であろう。」

 私は著者の一般読者向け著作の第一作である「狂気という隣人―精神科医の現場報告」(新潮社)を書評する光栄に浴してから、以降の著者の著作をすべて読んでいる。それらには一貫して、精神医学者としての正確な知識と、臨床医としての温かい共感性と、個人としての強い正義感が込められている。私は著者の新著の出版をいつも偶然に書店で知るのだが、そのつど嬉しい驚きを味わっている。

※おおしま・あきひこ 精神科医

 

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